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星期五, 七月 21, 2006

昭和天皇曾对靖国神社供奉甲级战犯表示不满

传日天皇不满神社合祭甲级战犯 小泉称不影响参拜

DWNEWS.COM-- 2006年7月20日18:22:30(京港台时间) --多维新闻




多维社记者王适综合报导/日本媒体披露,对于有历史笔记显示昭和天皇曾发言对甲级战犯合祭在靖国神社表示不满一事,7月20日,日本自民党内对参拜持慎重态度的人群中,“分祭论”的呼声有所抬头。而自民党一名干部表示,首相小泉纯一郎参拜靖国神社基本上应该不会有什么影响。

共同社报导,据日本经济新闻20日援引相关人员的话称,据1988年当时的宫内厅长官富田朝彦(已故)写下的笔记显示,昭和天皇当时曾发言对甲级战犯合祭到靖国神社表示不满。1978年甲级战犯在靖国神社合祭之后,昭和天皇便不再赴该处参拜。

此次的笔记对于了解昭和天皇此举意图而言是十分珍贵的资料,对于现任首相小泉纯一郎对靖国神社的参拜势必也将产生影响。据相关人士透露,包括担任宫内厅次长时期,富田在笔记本中写下了自己同昭和天皇的各种对话内容。其中有关靖国神社发言的笔记记录时间是1988年4月28日。

笔记上写道,昭和天皇表示,“在某个时候甲级(战犯)被合祭(于靖国神社),甚至连松冈、白取也……”、“所以那之后我便不再去参拜。这是(出于)我内心的想法”。话中提到的“松冈”“白取”便是指甲级战犯前外相松冈洋右和前驻意大利大使白鸟敏夫(译者注:鸟和取在日语中发音相同)。

此外,笔记中还写道,“松平的儿子、现今的宫司是怎么想的?那么轻易就……松平对和平抱着很强的信念,但他的儿子却完全不了解自己父亲的想法”。话中的 “松平”是指最后一任宫内大臣松平庆民(已故),他的“儿子”便是其长子、当时总管靖国神社的宫司(已故)松平永芳,此人便是将甲级战犯合祭到靖国神社的人。

报导说,担任跨党派议员联盟“思考国立追悼设施会”会长的自民党前副总裁山崎拓向各媒体记者表示:“我一贯主张(追悼设施)必须是天皇陛下也能参拜的设施。我想(此次的笔记)也会对建设追悼设施的讨论产生影响。”

自民党总务会长久间章生在记者招待会上强调称:“我一直认为合祭不好。现在也认为不该合祭。”自民党前干事长加藤纮一向记者指出:“我觉得(此事)会对分祭论造成很大影响。最好的做法是靖国神社方面自发决定分祭。”

有关小泉参拜靖国神社一事,他表示,“这并非首相一个人的内心问题。他应该考虑到这是对周围有影响的问题,极其谨慎地加以应对”。在被问及此事对9月党总裁选举有何影响时,加藤回答称,“目前还讲不清楚”,他表示将关注党内外的反应。

就媒体报道史料显示昭和天皇曾对靖国神社合祭甲级战犯表示不满一事,日本首相小泉纯一郎20日就是否影响其参拜靖国神社的提问称,“没有影响。(这一问题)是内心问题,不是可以强制的。任何人都是自由的”。

二战结束后,昭和天皇曾8次参拜靖国神社,最后一次是在1975年11月。现任的平成天皇1989年即位后并未参拜过靖国神社。

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以下为日本《朝日新闻》的相关报道

昭和天皇「私はあれ以来参拝していない」 A級戦犯合祀

2006年07月20日11時12分

 昭和天皇が死去前年の1988年、靖国神社にA級戦犯が合祀(ごうし)されたことについて、「私はあれ以来参拝していない それが私の心だ」などと発言したメモが残されていることが分かった。当時の富田朝彦宮内庁長官(故人)が発言をメモに記し、家族が保管していた。昭和天皇は靖国神社に戦後8回参拝。78年のA級戦犯合祀以降は一度も参拝していなかった。A級戦犯合祀後に昭和天皇が靖国参拝をしなかったことをめぐっては、合祀当時の側近が昭和天皇が不快感を抱いていた、と証言しており、今回のメモでその思いが裏付けられた格好だ。

 メモは88年4月28日付。それによると、昭和天皇の発言として「私は 或(あ)る時に、A級(戦犯)が合祀され その上 松岡、白取(原文のまま)までもが 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」と記されている。

 これらの個人名は、日独伊三国同盟を推進し、A級戦犯として合祀された松岡洋右元外相、白鳥敏夫元駐伊大使、66年に旧厚生省からA級戦犯の祭神名票を受け取ったが合祀していなかった筑波藤麿・靖国神社宮司を指しているとみられる。

 メモではさらに、「松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々(やすやす)と 松平は平和に強い考(え)があったと思うのに 親の心子知らずと思っている」と続けられている。終戦直後当時の松平慶民・宮内大臣と、合祀に踏み切った、その長男の松平永芳・靖国神社宮司について触れられたとみられる。

 昭和天皇は続けて「だから私(は)あれ以来参拝していない それが私の心だ」と述べた、と記されている。

 昭和天皇は戦後8回参拝したが、75年11月の参拝が最後で、78年のA級戦犯合祀以降は一度も参拝しなかった。

 靖国神社の広報課は20日、報道された内容について「コメントは差し控えたい」とだけ話した。

    ◇

 《「昭和天皇独白録」の出版にたずさわった作家半藤一利さんの話》メモや日記の一部を見ましたが、メモは手帳にびっしり張ってあった。天皇の目の前で書いたものかは分からないが、だいぶ時間がたってから書いたものではないことが分かる。昭和天皇の肉声に近いものだと思う。終戦直後の肉声として「独白録」があるが、最晩年の肉声として、本当に貴重な史料だ。後から勝手に作ったものではないと思う。

 個人的な悪口などを言わない昭和天皇が、かなり強く、A級戦犯合祀(ごうし)に反対の意思を表明しているのに驚いた。昭和天皇が靖国神社に行かなくなったこととA級戦犯合祀が関係していることはこれまでも推測されてはいたが、それが裏付けられたということになる。私にとってはやっぱりという思いだが、「合祀とは関係ない」という主張をしてきた人にとってはショックだろう。

    ◇

 靖国神社への戦犯の合祀(ごうし)は1959年、まずBC級戦犯から始まった。A級戦犯は78年に合祀された。

 大きな国際問題になったのは、戦後40年の85年。中曽根康弘首相(当時)が8月15日の終戦記念日に初めて公式参拝したことを受け、中国、韓国を始めとするアジア諸国から「侵略戦争を正当化している」という激しい批判が起こった。とりわけ、中国はA級戦犯の合祀を問題視した。結局、中曽根氏は関係悪化を防ぐために1回で参拝を打ち切った。だが、A級戦犯の合祀問題はその後も日中間を中心に続いている。

 昭和天皇は、戦前は年2回程度、主に新たな戦死者を祭る臨時大祭の際に靖国に参拝していた。戦後も8回にわたって参拝の記録があるが、連合国軍総司令部が45年12月、神道への国の保護の中止などを命じた「神道指令」を出した後、占領が終わるまでの約6年半は一度も参拝しなかった。52年10月に参拝を再開するが、その後、75年11月を最後に参拝は途絶えた。今の天皇は89年の即位後、一度も参拝したことがない。

 首相の靖国参拝を定着させることで、天皇「ご親拝」の復活に道を開きたいという考えの人たちもいる。

 自民党内では、首相の靖国参拝が問題視されないよう、A級戦犯の分祀(ぶんし)が検討されてきた。いったん合祀された霊を分け、一部を別の場所に移すという考え方で、遺族側に自発的な合祀取り下げが打診されたこともあるが、動きは止まっている。靖国神社側も、「いったん神として祭った霊を分けることはできない」と拒んでいる。

 ただ、分祀論は折に触れて浮上している。99年には小渕内閣の野中広務官房長官(当時)が靖国神社を宗教法人から特殊法人とする案とともに、分祀の検討を表明した。日本遺族会会長の古賀誠・元自民党幹事長も今年5月、A級戦犯の分祀を検討するよう提案。けじめをつけるため、兼務していた靖国神社の崇敬者総代を先月中旬に辞任している。

    ◇

《靖国神社に合祀された東京裁判のA級戦犯14人》

【絞首刑】(肩書は戦時、以下同じ)

東条英機(陸軍大将、首相)

板垣征四郎(陸軍大将)

土肥原賢二(陸軍大将)

松井石根(陸軍大将)

木村兵太郎(陸軍大将)

武藤章(陸軍中将)

広田弘毅(首相、外相)

【終身刑、獄死】

平沼騏一郎(首相)

小磯国昭(陸軍大将、首相)

白鳥敏夫(駐イタリア大使)

梅津美治郎(陸軍大将)

【禁固20年、獄死】

東郷茂徳(外相)

【判決前に病死】

松岡洋右(外相)

永野修身(海軍大将)

http://www.asahi.com/national/update/0720/TKY200607200188.html

11:25 发表在 靖国问题 | 查看全文 | 评论 (0)